きえん つれびと
奇縁の連人
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"アンジュ"の近くにあるコインパーキングへ車を入れる頃になって、急に高塚の様子がおかしくなった。
なんだかそわそわとして落ち着かない。
「どうかしたの?」
隣に座っていた綾子が声をかけてもキョロキョロしている。
「なんだかここら辺に見覚えがある気がします……」
パーキングからは店の裏通りが見通せる。その辺りにはかなり年季の入った家々が立ち並び、風情ある下町の風景といった感じだ。
どこからか風鈴の音が聞こえてきて、目の前を猫が横切る。
「そういえば高塚くんちってこの近くだった気がするわ。近所の雰囲気が好きだからよく散歩するんだって言ってた」
ならばこの辺りを歩き回っていたとしてもおかしくはない。高塚は昭和の時代が大好きで、古家具なんかを集めたりもしているらしい。
「いいよな、こーゆーの」
高塚じゃなくとも、このなんとも懐かしい独特の雰囲気が嫌いな日本人などきっといない。
直江を振り仰いでみると、少し真面目な顔をしてこちらを見ていた。
なんだよ、と言おうとしたのに、ふっと視線を逸らされる。
「さ、とっとと行くわよ!もしかしたらタダで何か食べられるかもしれないわ!」
高耶の感じたわずかな違和感は、根拠のない期待に満ちた綾子の声にかき消されてしまった。
高塚には車で待っていてもいいと言ったのだが、ついてくるというので好きにさせることにして、一行は店へと向かって歩き出す。
すぐに店の裏口が見えてきた。
同時に香ばしいパンの香りが漂い始める。
綾子ではないけれど、高耶も少し空腹を感じ始めていた。
すぐ後ろを歩く高塚はやはり落ち着かない様子で、クンクンと周囲の匂いを嗅いでいる。
と、ちょうどそこへ店の裏口から、従業員らしき白衣の人物が出てくるのが見えた。
「あ!」
綾子が声を上げる。
「ナイスタイミング!私、ちょっと時間貰えないか聞いてくるわ!」
と言うなり走って行ってしまった。
どうやら、あの人物が店長のようだ。
近づくに連れてその容姿が明らかとなる。
(………ん?)
人の良さそうな顔立ちをしていた。日曜の公園にいるお父さんといった雰囲気だ。
三浦が言っていたという、極悪非道の人間にはとても見えなかった。
しかし、綾子の入れ込みようからものすごい美男子を想像していた高耶にしてみると、失礼な話だがなんだか拍子抜けしてしまった。
「ねーさんはああいうのが好みなのか」
「さあ……。晴家の好みについては考えてみたこともないですから……」
もしかしたら、"彼"に似ている部分があるのかもしれませんねと直江は言った。
それで思い出す。綾子には200年もの間、待ち続けている相手がいたはずなのだ。
(そっか……)
高耶は想像する。
年齢も性別も容姿もわからない相手を探すことの苦労の大きさを。
きっと人と出会う度、すれ違う度に、その人の面影がないか、どこか似ている部分はないか、と考えるのだ。
隣の男が自分と再会するまでの間、ずっとそうしてきたように。
「早く行きましょう。あいつに任せたままにしておくと、とんだ誤解をされそうですよ」
そう言われて店の方を見ると、綾子のあまりのテンションの高さに、店長がかなり不審な目になっている。
不利な状況を打開しようと直江が近づいていって声をかけた。
すぐに高耶も加わって、とりあえず話を聞いて欲しいと頼んでみる。
わいわいと騒ぐ一行の後ろで、高塚はひとり奇妙な顔で佇んでいる。
なんだかそわそわとして落ち着かない。
「どうかしたの?」
隣に座っていた綾子が声をかけてもキョロキョロしている。
「なんだかここら辺に見覚えがある気がします……」
パーキングからは店の裏通りが見通せる。その辺りにはかなり年季の入った家々が立ち並び、風情ある下町の風景といった感じだ。
どこからか風鈴の音が聞こえてきて、目の前を猫が横切る。
「そういえば高塚くんちってこの近くだった気がするわ。近所の雰囲気が好きだからよく散歩するんだって言ってた」
ならばこの辺りを歩き回っていたとしてもおかしくはない。高塚は昭和の時代が大好きで、古家具なんかを集めたりもしているらしい。
「いいよな、こーゆーの」
高塚じゃなくとも、このなんとも懐かしい独特の雰囲気が嫌いな日本人などきっといない。
直江を振り仰いでみると、少し真面目な顔をしてこちらを見ていた。
なんだよ、と言おうとしたのに、ふっと視線を逸らされる。
「さ、とっとと行くわよ!もしかしたらタダで何か食べられるかもしれないわ!」
高耶の感じたわずかな違和感は、根拠のない期待に満ちた綾子の声にかき消されてしまった。
高塚には車で待っていてもいいと言ったのだが、ついてくるというので好きにさせることにして、一行は店へと向かって歩き出す。
すぐに店の裏口が見えてきた。
同時に香ばしいパンの香りが漂い始める。
綾子ではないけれど、高耶も少し空腹を感じ始めていた。
すぐ後ろを歩く高塚はやはり落ち着かない様子で、クンクンと周囲の匂いを嗅いでいる。
と、ちょうどそこへ店の裏口から、従業員らしき白衣の人物が出てくるのが見えた。
「あ!」
綾子が声を上げる。
「ナイスタイミング!私、ちょっと時間貰えないか聞いてくるわ!」
と言うなり走って行ってしまった。
どうやら、あの人物が店長のようだ。
近づくに連れてその容姿が明らかとなる。
(………ん?)
人の良さそうな顔立ちをしていた。日曜の公園にいるお父さんといった雰囲気だ。
三浦が言っていたという、極悪非道の人間にはとても見えなかった。
しかし、綾子の入れ込みようからものすごい美男子を想像していた高耶にしてみると、失礼な話だがなんだか拍子抜けしてしまった。
「ねーさんはああいうのが好みなのか」
「さあ……。晴家の好みについては考えてみたこともないですから……」
もしかしたら、"彼"に似ている部分があるのかもしれませんねと直江は言った。
それで思い出す。綾子には200年もの間、待ち続けている相手がいたはずなのだ。
(そっか……)
高耶は想像する。
年齢も性別も容姿もわからない相手を探すことの苦労の大きさを。
きっと人と出会う度、すれ違う度に、その人の面影がないか、どこか似ている部分はないか、と考えるのだ。
隣の男が自分と再会するまでの間、ずっとそうしてきたように。
「早く行きましょう。あいつに任せたままにしておくと、とんだ誤解をされそうですよ」
そう言われて店の方を見ると、綾子のあまりのテンションの高さに、店長がかなり不審な目になっている。
不利な状況を打開しようと直江が近づいていって声をかけた。
すぐに高耶も加わって、とりあえず話を聞いて欲しいと頼んでみる。
わいわいと騒ぐ一行の後ろで、高塚はひとり奇妙な顔で佇んでいる。
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「すみません、怪しい者ではないんです」
せっかく綾子がいい感じで事を進めていたというのに、見るからに高級そうな黒スーツに黒ネクタイの直江に言われて、飯島陽一店長の顔は目に見えて引き攣った。
「とにかく話だけでも聞いてもらえませんか?」
眼光鋭い元ヤン高校生の妙に威圧的な態度にも、飯島は引き気味だ。
「いや、まだ営業中なので……」
引きとめようとする綾子の手を振り払って、また店内に戻ろうとする。
「直江、アレは?」
綾子に言われて直江が懐に忍ばせてある最後の手段、警察手帳に手をやったその時、ものすごい勢いで一台の原付が突っ込んできた。
深くブレーキレバーを引いて横滑りしながら停まると、さっとメットを取った。
現れたその顔に飯島が驚く。
「み、三浦っ!?」
「……どーも」
睨んでいるのか拗ねているのかわからない顔つきで三浦は飯島を見た。
そして、
「どーですか、ゲロりましたか?」
と綾子たちに向かって聞いてくる。
ゲロるも何もまだ話もしてないわよ、と綾子は言おうとしたが、店長の動きの方が早かった。
バイクに跨ったままの三浦の首根っこを、押さえつけ始めたのだ。
「いててててっ……」
「おまえっ!よく顔を出せたな!」
かなり怒った様子で、飯島は怒鳴った。
そういえば三浦は、この店に対して散々嫌がらせを働いていたのである。
「な、なんの話だよっ!」
「バカいうな!バレてないとでも思ってたのか!?おとといもやっただろう、俺の自転車!いい加減、子供みたいなことはやめなさい!」
腕を逆手に取られて悲鳴をあげる。
「とにかく、中に入りなさい!話があるから!」
そのまま三浦をバイクから引き摺り下ろし、店の裏口へ連れ込もうとする飯島に綾子はとっさに言った。
「あっ、じゃあついでに私達もっ!」
は?と聞き返す飯島の背中を三浦ごと押すようにして、4人は建物の中へとなだれ込んだ。
「乗っ取り……」
そう、ため息をつく飯島の顔を、綾子はじっと見つめた。
改めて、いい男だと感じていた。
優しげな目鼻立ちと男気のある喋り方、製パンに対する情熱のようなものが内から滲み出ている(と綾子は思う)。
人というものは強いだけでも優しいだけでもきっと駄目なのだ。両方を兼ね備えてこそ、魅力ある人物といえる。
他者を救うことへの情熱と、弱者に対する限りない慈しみ。大好きなあの人のように。綾子は自分もそうでありたいと思う。
「何か心当たりはありませんか?」
直江が訊く。飯島はなんだかんだ言いながら結局全ての話を聞いてくれた。
今は従業員用の休憩室にみんなでいる。お茶まで淹れてもらって。
三浦と増田が出合ったことや、自分たちがここへ来ることになった経緯、ついでに高塚の事情なんかを、直江が説明し終わったところだ。
唐突な疑いに怒ることもなく、隣で黙ったまま座っている三浦の頭を小突いただけだった。
「こいつから何を言われたか分かりませんが、正直、自分はそんなばかげたことはしないですよ。この店だってうちのじーさんが始めたものを親父が継いで、親父が身体を悪くしたんで俺が継いだんです。」
「じゃあ、元からこの店が他人のものだったことはない、と」
「もちろんです」
ほーらね、やっぱり、と綾子は胸を張った。
「信じちゃダメです。こんな風にみえても店長は昔、ヤクザだったんですから」
三浦の言葉を聞いて飯島は頭をぽりぽりとかいた。
「違うっちゅーの。ガキの頃の友達がたまたまそっちのほうにいってる奴が多いってだけで、俺は普通の一般市民ですから」
「え、でもバブルの時地上げやってたとか、借金取りやってたって」
「は?……ああ、ありゃあ冗談。何だ、お前本気にしてたのか」
「あ……当たり前っすよ!全然冗談っぽくなかったし!」
三浦は大声をあげた。
「大体、従業員殴るなんてしないっすよ、ふつう。ヤクザっぽかったっすもん」
「あれは確かに俺も大人気なかったけどな。けどお前、あのとき一週間も連続で遅刻してただろう。なのに謝りもしないで入ってきやがって」
「だから、寝起きが悪いのは低血圧だからしょうがないって言ってんじゃないですかぁ……」
今度は三浦が頭をかいた。
「ガラス割られた時だって、絶対お前だってわかってたし、よっぽど通報しようかと思ったんだからな」
しなかっただけありがたいと思え、と三浦の背中を叩いた。
どうやら、色々と誤解があったようだ。
「じゃあ、やはり増田のいう店というのは別の"アンジュ"かもしれませんね」
直江が考え込むように言うと、
「いや、それが」
と飯島が首をかしげている。
「何か?」
「そのマスダって名前だけは聞いたことある気がするんだけどなあ」
しばらくマスダマスダとつぶやいていた店長は急に
「ああっ!」
と叫び、何かを思い立って慌てて部屋を出て行った。
「どうしちゃったんだろ」
「さあ……ってゆーか、あんた。そうとう飯島さんに世話になってんじゃないのよ!なーにが極悪非道の男よ!」
「え、俺そこまで言ってないっす……」
綾子が三浦をちくちくと責めていると、店長がバタバタと戻ってきた。
「こ、これ、みてみてください!」
それは一冊の古びたノートだった。
"安寿"レシピノート
増田 安二郎
飯島 寿一
「飯島寿一っていうのはうちのじーさんなんですけどっ」
「増田……安二郎?」
「思い出しましたよ、じーさんがしょっちゅう話してくれてたのに、すっかり忘れてた」
懐かしむような目でノートをぱらぱらとめくる。
「増田安二郎って人はじーさんの幼馴染で、一緒にこの店を始めた人なんです」
その言葉に全員が息をのむ中、飯島は静かに祖父から聞いたという話を語り始めた。
せっかく綾子がいい感じで事を進めていたというのに、見るからに高級そうな黒スーツに黒ネクタイの直江に言われて、飯島陽一店長の顔は目に見えて引き攣った。
「とにかく話だけでも聞いてもらえませんか?」
眼光鋭い元ヤン高校生の妙に威圧的な態度にも、飯島は引き気味だ。
「いや、まだ営業中なので……」
引きとめようとする綾子の手を振り払って、また店内に戻ろうとする。
「直江、アレは?」
綾子に言われて直江が懐に忍ばせてある最後の手段、警察手帳に手をやったその時、ものすごい勢いで一台の原付が突っ込んできた。
深くブレーキレバーを引いて横滑りしながら停まると、さっとメットを取った。
現れたその顔に飯島が驚く。
「み、三浦っ!?」
「……どーも」
睨んでいるのか拗ねているのかわからない顔つきで三浦は飯島を見た。
そして、
「どーですか、ゲロりましたか?」
と綾子たちに向かって聞いてくる。
ゲロるも何もまだ話もしてないわよ、と綾子は言おうとしたが、店長の動きの方が早かった。
バイクに跨ったままの三浦の首根っこを、押さえつけ始めたのだ。
「いててててっ……」
「おまえっ!よく顔を出せたな!」
かなり怒った様子で、飯島は怒鳴った。
そういえば三浦は、この店に対して散々嫌がらせを働いていたのである。
「な、なんの話だよっ!」
「バカいうな!バレてないとでも思ってたのか!?おとといもやっただろう、俺の自転車!いい加減、子供みたいなことはやめなさい!」
腕を逆手に取られて悲鳴をあげる。
「とにかく、中に入りなさい!話があるから!」
そのまま三浦をバイクから引き摺り下ろし、店の裏口へ連れ込もうとする飯島に綾子はとっさに言った。
「あっ、じゃあついでに私達もっ!」
は?と聞き返す飯島の背中を三浦ごと押すようにして、4人は建物の中へとなだれ込んだ。
「乗っ取り……」
そう、ため息をつく飯島の顔を、綾子はじっと見つめた。
改めて、いい男だと感じていた。
優しげな目鼻立ちと男気のある喋り方、製パンに対する情熱のようなものが内から滲み出ている(と綾子は思う)。
人というものは強いだけでも優しいだけでもきっと駄目なのだ。両方を兼ね備えてこそ、魅力ある人物といえる。
他者を救うことへの情熱と、弱者に対する限りない慈しみ。大好きなあの人のように。綾子は自分もそうでありたいと思う。
「何か心当たりはありませんか?」
直江が訊く。飯島はなんだかんだ言いながら結局全ての話を聞いてくれた。
今は従業員用の休憩室にみんなでいる。お茶まで淹れてもらって。
三浦と増田が出合ったことや、自分たちがここへ来ることになった経緯、ついでに高塚の事情なんかを、直江が説明し終わったところだ。
唐突な疑いに怒ることもなく、隣で黙ったまま座っている三浦の頭を小突いただけだった。
「こいつから何を言われたか分かりませんが、正直、自分はそんなばかげたことはしないですよ。この店だってうちのじーさんが始めたものを親父が継いで、親父が身体を悪くしたんで俺が継いだんです。」
「じゃあ、元からこの店が他人のものだったことはない、と」
「もちろんです」
ほーらね、やっぱり、と綾子は胸を張った。
「信じちゃダメです。こんな風にみえても店長は昔、ヤクザだったんですから」
三浦の言葉を聞いて飯島は頭をぽりぽりとかいた。
「違うっちゅーの。ガキの頃の友達がたまたまそっちのほうにいってる奴が多いってだけで、俺は普通の一般市民ですから」
「え、でもバブルの時地上げやってたとか、借金取りやってたって」
「は?……ああ、ありゃあ冗談。何だ、お前本気にしてたのか」
「あ……当たり前っすよ!全然冗談っぽくなかったし!」
三浦は大声をあげた。
「大体、従業員殴るなんてしないっすよ、ふつう。ヤクザっぽかったっすもん」
「あれは確かに俺も大人気なかったけどな。けどお前、あのとき一週間も連続で遅刻してただろう。なのに謝りもしないで入ってきやがって」
「だから、寝起きが悪いのは低血圧だからしょうがないって言ってんじゃないですかぁ……」
今度は三浦が頭をかいた。
「ガラス割られた時だって、絶対お前だってわかってたし、よっぽど通報しようかと思ったんだからな」
しなかっただけありがたいと思え、と三浦の背中を叩いた。
どうやら、色々と誤解があったようだ。
「じゃあ、やはり増田のいう店というのは別の"アンジュ"かもしれませんね」
直江が考え込むように言うと、
「いや、それが」
と飯島が首をかしげている。
「何か?」
「そのマスダって名前だけは聞いたことある気がするんだけどなあ」
しばらくマスダマスダとつぶやいていた店長は急に
「ああっ!」
と叫び、何かを思い立って慌てて部屋を出て行った。
「どうしちゃったんだろ」
「さあ……ってゆーか、あんた。そうとう飯島さんに世話になってんじゃないのよ!なーにが極悪非道の男よ!」
「え、俺そこまで言ってないっす……」
綾子が三浦をちくちくと責めていると、店長がバタバタと戻ってきた。
「こ、これ、みてみてください!」
それは一冊の古びたノートだった。
"安寿"レシピノート
増田 安二郎
飯島 寿一
「飯島寿一っていうのはうちのじーさんなんですけどっ」
「増田……安二郎?」
「思い出しましたよ、じーさんがしょっちゅう話してくれてたのに、すっかり忘れてた」
懐かしむような目でノートをぱらぱらとめくる。
「増田安二郎って人はじーさんの幼馴染で、一緒にこの店を始めた人なんです」
その言葉に全員が息をのむ中、飯島は静かに祖父から聞いたという話を語り始めた。
飯島家は古くからこのあたりに住んでいて、陽一の祖父、寿一もやはりここのすぐ近くで生を受けた。
その寿一より三日ばかり早く産声をあげたのが、斜向いに住む増田家の安二郎だったという。
小さい頃からとにかく仲が良く、何をするにもふたり一緒だった。おっとりとした寿一と対照的に活発な安二郎はケンカなどしたこともなく、ふたりで遊び始めれば延々熱中し続けていたという。
昭和という元号にやっと耳が慣れてきたとある年、ふたりの間では探検あそびが流行っていた頃のことだ。
いつもは近所の神社の境内を、遺跡や未開の土地にみたてて遊ぶのだが、その日だけは早起きをして出かける予定を立てていた。
隣町にある、とある家を見に行くためだ。
近所のガキ大将がその家に住む女に、呪いの言葉のようなものを投げつけられた武勇伝は、界隈の子供たちの間では有名な話だった。
それを前々から羨ましく思っていた安二郎が、どうしても自分も行きたいと言って聞かないから、寿一も渋々ついていくことになったのだ。
ガキ大将の言うとおりに道筋を行くと、隣町のはずれにその家は建っていた。
呪いをかけてくるような女が住む家だ。寿一が想像していたのは、とても大きな洋館のようなものだったのだが、実際はこじんまりとした日本家屋で、しかも今にも倒れてしまいそうなものだった。
足音を忍ばせながら勝手に庭に入り込み、家屋に近づいて行く。心臓を破裂しそうなほど動悸させている寿一は、その家から何ともいえない好い香りが漂ってきていることに気付いた。
隙間風の酷そうな、壊れかけた窓からそっと家の中を覗き込む。と、すぐそこにいた女とばっちり目が合ってしまった。
高い鼻。ぼさぼさの獣の毛のような色の髪。黒い洋服の上に、更に黒くて古い着物を羽織りのように着ている。帯は締めていない。
彼女は笑って、めくばせをしながらふたりに向かって手招きをした。
寿一は冗談じゃないと思い立ち去ろうとしたのだが、安二郎はさっさと玄関の扉をあけて中へ入ってしまったから、慌てて後を追うほかなかった。
入ってみると、ごちゃごちゃと物の置かれた室内には、見たことのない文字の本や生活用具が並んでいて、冒険小説に出てくる外国帆船の航海室を連想させた。すると寿一は、さっきまでの恐怖はどこかへ消え、すっかり楽しい気分になってしまったのだ。
話をしてみれば、ガキ大将の言っていた呪いの言葉というのは、彼女の外国語訛りの日本語であることはすぐにわかった。
当時の外国人はどちらかというと偉人扱いされることが多かったのだが、彼女の独特の雰囲気は確かに外国のものというより異界のまじない師といった感じだ。
しかも彼女は数分後、彼らに本物の"呪い"をかけることとなる。
その寿一より三日ばかり早く産声をあげたのが、斜向いに住む増田家の安二郎だったという。
小さい頃からとにかく仲が良く、何をするにもふたり一緒だった。おっとりとした寿一と対照的に活発な安二郎はケンカなどしたこともなく、ふたりで遊び始めれば延々熱中し続けていたという。
昭和という元号にやっと耳が慣れてきたとある年、ふたりの間では探検あそびが流行っていた頃のことだ。
いつもは近所の神社の境内を、遺跡や未開の土地にみたてて遊ぶのだが、その日だけは早起きをして出かける予定を立てていた。
隣町にある、とある家を見に行くためだ。
近所のガキ大将がその家に住む女に、呪いの言葉のようなものを投げつけられた武勇伝は、界隈の子供たちの間では有名な話だった。
それを前々から羨ましく思っていた安二郎が、どうしても自分も行きたいと言って聞かないから、寿一も渋々ついていくことになったのだ。
ガキ大将の言うとおりに道筋を行くと、隣町のはずれにその家は建っていた。
呪いをかけてくるような女が住む家だ。寿一が想像していたのは、とても大きな洋館のようなものだったのだが、実際はこじんまりとした日本家屋で、しかも今にも倒れてしまいそうなものだった。
足音を忍ばせながら勝手に庭に入り込み、家屋に近づいて行く。心臓を破裂しそうなほど動悸させている寿一は、その家から何ともいえない好い香りが漂ってきていることに気付いた。
隙間風の酷そうな、壊れかけた窓からそっと家の中を覗き込む。と、すぐそこにいた女とばっちり目が合ってしまった。
高い鼻。ぼさぼさの獣の毛のような色の髪。黒い洋服の上に、更に黒くて古い着物を羽織りのように着ている。帯は締めていない。
彼女は笑って、めくばせをしながらふたりに向かって手招きをした。
寿一は冗談じゃないと思い立ち去ろうとしたのだが、安二郎はさっさと玄関の扉をあけて中へ入ってしまったから、慌てて後を追うほかなかった。
入ってみると、ごちゃごちゃと物の置かれた室内には、見たことのない文字の本や生活用具が並んでいて、冒険小説に出てくる外国帆船の航海室を連想させた。すると寿一は、さっきまでの恐怖はどこかへ消え、すっかり楽しい気分になってしまったのだ。
話をしてみれば、ガキ大将の言っていた呪いの言葉というのは、彼女の外国語訛りの日本語であることはすぐにわかった。
当時の外国人はどちらかというと偉人扱いされることが多かったのだが、彼女の独特の雰囲気は確かに外国のものというより異界のまじない師といった感じだ。
しかも彼女は数分後、彼らに本物の"呪い"をかけることとなる。
まず彼女はふたりを西洋風のちゃぶ台の前に座らせた。
そして、お勝手のほうから茶色い物体をかごに入れて持ってくる。
差し出されて手に取ると、菱形のそれは表面がきらきらと光っていて軽く、甘い油の香りがしていた。
"これはパンです”と彼女が言うまで、ふたりはそれが何だかわからなかった。ふたりの知るパンとはまるで見た目が違っていたからだ。
まだ温かさが残っている。
そっとかじってみて、唖然となった。
食感も味も、今までにないものだった。
この世で一番美味しいものは、間違いなくこれだ、と思った。
出されたものを二人だけで平らげてしまうのに、そう時間は要らなかった。
後になって、あの時彼女は自分で食べる為に焼いたであったろうに、遠慮もせずに食べてしまったことを後悔したりもした。
が、その時はふたりしてそのパンに夢中で、そんなことを考える余裕はなかった。
ただ、その時の彼女に怒った風はなく、明るく楽しそうに微笑んでいた。
彼女にはきっとわかっていたのだ。
ふたりがこの日の出来事に一生心を囚われてしまうことを。
内心、自分の呪いが成功したとほくそえんでいたかもしれない。
味覚欲、食感欲とでもいうべき呪い。そしてその呪いは、ふたりに夢と情熱を与えた。
その日から、毎日のように彼女の家へと通った。
その食べ物が"クルワソーン"という名前だとわかり、成型の方法を習ったりもした。
初めて触れたパンの生地はとてもやわらかい餅のようで、寿一は口にこそ出さなかったが、母親の体のようだと思った。
彼女が生地を伸ばし、均等に切り分けられた三角のそれをくるくるとまいて見せる様子は、やはり普通の人間の持たざる技のように見えた。その魔法の技を習得するのに、ふたりして夢中になった。
結局、彼女はある日突然消えるようにしていなくなってしまうのだが、それでも彼らの呪いが解けることはなかった。
あの感動を忘れることができないふたりは誓ったのだ。大きくなったら自分達で"クルワソーン"を作って、毎日たらふく食べよう。そしてもっとたくさんの人に食べてもらおう、と。
ところが彼らが就職先を探す歳になる頃にはすでに、あの戦争が始まろうとしていた。
そして、お勝手のほうから茶色い物体をかごに入れて持ってくる。
差し出されて手に取ると、菱形のそれは表面がきらきらと光っていて軽く、甘い油の香りがしていた。
"これはパンです”と彼女が言うまで、ふたりはそれが何だかわからなかった。ふたりの知るパンとはまるで見た目が違っていたからだ。
まだ温かさが残っている。
そっとかじってみて、唖然となった。
食感も味も、今までにないものだった。
この世で一番美味しいものは、間違いなくこれだ、と思った。
出されたものを二人だけで平らげてしまうのに、そう時間は要らなかった。
後になって、あの時彼女は自分で食べる為に焼いたであったろうに、遠慮もせずに食べてしまったことを後悔したりもした。
が、その時はふたりしてそのパンに夢中で、そんなことを考える余裕はなかった。
ただ、その時の彼女に怒った風はなく、明るく楽しそうに微笑んでいた。
彼女にはきっとわかっていたのだ。
ふたりがこの日の出来事に一生心を囚われてしまうことを。
内心、自分の呪いが成功したとほくそえんでいたかもしれない。
味覚欲、食感欲とでもいうべき呪い。そしてその呪いは、ふたりに夢と情熱を与えた。
その日から、毎日のように彼女の家へと通った。
その食べ物が"クルワソーン"という名前だとわかり、成型の方法を習ったりもした。
初めて触れたパンの生地はとてもやわらかい餅のようで、寿一は口にこそ出さなかったが、母親の体のようだと思った。
彼女が生地を伸ばし、均等に切り分けられた三角のそれをくるくるとまいて見せる様子は、やはり普通の人間の持たざる技のように見えた。その魔法の技を習得するのに、ふたりして夢中になった。
結局、彼女はある日突然消えるようにしていなくなってしまうのだが、それでも彼らの呪いが解けることはなかった。
あの感動を忘れることができないふたりは誓ったのだ。大きくなったら自分達で"クルワソーン"を作って、毎日たらふく食べよう。そしてもっとたくさんの人に食べてもらおう、と。
ところが彼らが就職先を探す歳になる頃にはすでに、あの戦争が始まろうとしていた。
「このノートは、その女性がいなくなってから徴兵されるまでの間、ふたりが必死に考えたレシピなんです」
長い話に声もなく聞き入る一同を見渡すようにして、陽一は言った。
戦争から戻ったら、必ずふたりでパン屋を開こう、と誓ってふたりは出征したのだそうだ。
ところが、戦とは本当に残酷なものだ。
「じーさんは外地で怪我をして左腕が不自由になり、パン作りなんてとても無理な身体になってしまいました」
それでも右手だけでなんとかならないかと、かなり試行錯誤したらしい。
「何故かと言うと、安二郎さんの方がもっと酷い状況にあったからなんです」
赴いた先の食料事情や不衛生な環境が元で、あの誰よりも元気で丈夫だった増田が、肺の病を患ってしまったのだ。
医者に見せても、もう与える薬すらないと言われるほどに悪化した状態だった。
後は死ぬのを待つだけだとわかった時の増田の心は、とても計りきれないと寿一はよく言っていた。
それでふたりは、本当に命がけでパン屋を開業する為の行動を開始したのだ。
もちろんまともな材料なんて手に入らない。寿一は増田に隠れて、危ない筋から借金までして、なんとか開店にこぎつけた。が、そのときには既に、増田は起き上がるのがやっとの状態だった。
「一緒に店をできたのはたった三日だけだったと聞いています」
店で血を吐いて倒れ、そのまま入院してすぐに亡くなったと。
「そうだ……。そうだったんだ……」
呟くような声が漏れた。三浦の瞳から涙がぽろぽろこぼれている。
いつのまにか、増田に入れ替わっていた。
「すべて、思い出した……」
手が不自由だからうまくパンがやけない。そう言って生まれて初めて苛立った顔をみせた寿一。
「あの優しい寿一が、嫌がる息子を怒鳴りつけながら手伝わせて……そうまでしてパンを焼いたんだ」
「そ、その話、親父に聞いたことがあります……」
増田は病院に担ぎ込まれた後、あっけなく死んだ。苦しい息の中、ずっと握っていてくれた寿一の手の温かさはまだ覚えている。三浦と会ったあの病院だ。
「本当に彼は温かい男だったよ」
話に聞くだけだった人物が祖父を語るのを目の前にして、陽一の瞳も心なしか潤んでいる。
ところがそれ以上、号泣といってよい程に涙を流している人物がいた。
「ううっ、あうううっ」
高塚だ。
先程から何かを喋ろうと口を開くのだが、嗚咽で言葉をうまく紡げない。
「ちょっと、鼻水くらい拭きなさいよ……」
綾子が自分の鼻を拭いていたハンカチを高塚に差し出すと、それを押しのけて高塚が叫んだ。
「ヷダジデズッッ!!」
「……は?」
思わず全員が高塚をみる。何と言ったのかがまるでわからない。
「ぼっ、ぼくですっ!!やっちゃん!!」
高塚は増田の手を両手で握った。その温かさに増田が眼を瞠る。
「寿一ですっっ!!」
増田が眼を剥いた。
陽一も呆気にとられている。
綾子の手からはお茶がこぼれ、高耶と直江の口はぽかんと開きっぱなしだ。
「じゅ……じゅいっちゃん……?」
恐る恐る名を呼んだ増田に対して、高塚に憑依した飯島寿一はぶんぶんと首を縦に振って見せた。
長い話に声もなく聞き入る一同を見渡すようにして、陽一は言った。
戦争から戻ったら、必ずふたりでパン屋を開こう、と誓ってふたりは出征したのだそうだ。
ところが、戦とは本当に残酷なものだ。
「じーさんは外地で怪我をして左腕が不自由になり、パン作りなんてとても無理な身体になってしまいました」
それでも右手だけでなんとかならないかと、かなり試行錯誤したらしい。
「何故かと言うと、安二郎さんの方がもっと酷い状況にあったからなんです」
赴いた先の食料事情や不衛生な環境が元で、あの誰よりも元気で丈夫だった増田が、肺の病を患ってしまったのだ。
医者に見せても、もう与える薬すらないと言われるほどに悪化した状態だった。
後は死ぬのを待つだけだとわかった時の増田の心は、とても計りきれないと寿一はよく言っていた。
それでふたりは、本当に命がけでパン屋を開業する為の行動を開始したのだ。
もちろんまともな材料なんて手に入らない。寿一は増田に隠れて、危ない筋から借金までして、なんとか開店にこぎつけた。が、そのときには既に、増田は起き上がるのがやっとの状態だった。
「一緒に店をできたのはたった三日だけだったと聞いています」
店で血を吐いて倒れ、そのまま入院してすぐに亡くなったと。
「そうだ……。そうだったんだ……」
呟くような声が漏れた。三浦の瞳から涙がぽろぽろこぼれている。
いつのまにか、増田に入れ替わっていた。
「すべて、思い出した……」
手が不自由だからうまくパンがやけない。そう言って生まれて初めて苛立った顔をみせた寿一。
「あの優しい寿一が、嫌がる息子を怒鳴りつけながら手伝わせて……そうまでしてパンを焼いたんだ」
「そ、その話、親父に聞いたことがあります……」
増田は病院に担ぎ込まれた後、あっけなく死んだ。苦しい息の中、ずっと握っていてくれた寿一の手の温かさはまだ覚えている。三浦と会ったあの病院だ。
「本当に彼は温かい男だったよ」
話に聞くだけだった人物が祖父を語るのを目の前にして、陽一の瞳も心なしか潤んでいる。
ところがそれ以上、号泣といってよい程に涙を流している人物がいた。
「ううっ、あうううっ」
高塚だ。
先程から何かを喋ろうと口を開くのだが、嗚咽で言葉をうまく紡げない。
「ちょっと、鼻水くらい拭きなさいよ……」
綾子が自分の鼻を拭いていたハンカチを高塚に差し出すと、それを押しのけて高塚が叫んだ。
「ヷダジデズッッ!!」
「……は?」
思わず全員が高塚をみる。何と言ったのかがまるでわからない。
「ぼっ、ぼくですっ!!やっちゃん!!」
高塚は増田の手を両手で握った。その温かさに増田が眼を瞠る。
「寿一ですっっ!!」
増田が眼を剥いた。
陽一も呆気にとられている。
綾子の手からはお茶がこぼれ、高耶と直江の口はぽかんと開きっぱなしだ。
「じゅ……じゅいっちゃん……?」
恐る恐る名を呼んだ増田に対して、高塚に憑依した飯島寿一はぶんぶんと首を縦に振って見せた。
きえん つれびと
奇縁の連人